アラン幸福論から「旅行」

以前、社員旅行なるものに参加していた頃、その強行スケジュールのために期待していた観光地の滞在時間がわずかで慌ただしく、とりあえず写真に撮っておくだけという感じの残念な思いをすることがよくありました。

さて、今から110年も前に書かれたアラン先生の「幸福論」の中に、そんな忙しい旅行を戒めるかのような「旅行」という文章があります。

ちょっと長いですが、時間があればお付き合いください。

 休暇のときには、芝居や映画を次から次へと見歩あるく人たちがたくさんある。少しの時間に多くのものを見たいと人は思うに違いない。見た話をするためなら、この方法が最上だ。引き合いに出す場所の名が多いほどよいからである。しかし、本人のため、またほんとうに見るためなら、あまり関心しない。大急ぎで見たのでは、どれもこれも似たようなものになる。急流はいつでも急流だ。だから、大急ぎで世界をはせめぐる人は、そのあとでも、その前よりは、たいして思い出が多くなりはしない。

 

見るものの真の富は、細部にある。見るというのは、細部を経めぐり、それそれの部分に少し立ち止まり、そして再び全体を一瞥して把握することである。他の人には、これが速くできて、別なものにはせつけ、また別なものにとびつくことができるのかどうか、私は知らない。私としては、そんなことはできない。毎日りっぱなものをながめて、たとえばサントゥアン教会を、自分の家にある絵のように利用できるルアンの人たちは幸いなるかな。

こちらがそのサントゥアン教会(画像引用元:http://4travel.jp/)
saint-ouen

 それにひきかえ、ひとたび博物館に入るとか、観光地に行くとかすると、ほとんどまちがいなく、思い出がごっちゃになり、ついには線のぼやけた灰色の絵のようになってしまう。

私の趣味としては、旅行というものは、一度に一メートルか二メートル歩いては立ち止まり、同じものの新しい姿を改めてながめることにほかならない。ほんの少し右か左に行って腰をおろせば、もう全体が変化する。百キロメートルも歩いたより以上に変化することが、よくあるものだ。

急流から急流へと走り回るなら、いつでも同じ急流を見ることになる。しかし、岩から岩へと歩いて行けば、同じ急流でも一歩ごとに別なものになる。そして、すでに見たもののところへもどってみると、新しいもの以上に私の心を捕らえるし、また実際それは新しいものなのである。習慣のなかに眠りこんでしまわないためには、変化のある豊富な観物を一つだけ選びさえすればよいのだ。それどころか、見方が変わるにつれて、どんな観物でも汲みつくせないような喜びを含んでいるものだ、と言わなければならない。それに、どこにいても星空を見ることができる。これこそ、みごとな断崖である。

(1906年8月29日)

「見るものの真の価値は細部にある。」

「習慣のなかに眠りこんでしまわないためには、変化のある豊富な観物を一つだけ選びさえすればよいのだ。」

これは旅行だけでなく、いろんな事がらにも言えそうですね。

文章引用元:角川学芸出版「幸福論 アラン」石川湧=訳